『アンドー』シーズン2 感想──過去一面白かった

めちゃくちゃ感動した。正直に言って、ディズニー傘下で制作されたスター・ウォーズ作品の中では、間違いなくトップの出来だと思う。

もちろん『マンダロリアン』も面白い。あれは“スター・ウォーズ的な面白さ”がすべて詰め込まれていて、純粋に楽しめる。
しかし『アンドー』は違う。ジェダイもフォースもライトセーバーも、馴染みの宇宙人も出てこない。
にもかかわらず、展開そのものが面白い。政治劇がはさまっても面白い。フォースに頼らず、言葉と思想と行動で動くドラマ。
それでいて、間違いなくスター・ウォーズの世界である。

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モン・モスマの魅力

本作が驚異的なのは、エピソード6で一瞬しか登場しなかったモン・モスマを、ここまで物語の中核に据え、丁寧に描き切ったことだ。
エピソード3では登場シーンがカットされ、ローグ・ワンでも出番はわずかだった。その彼女が、ここで主役級に成長する。
正直言って、私の記憶の中では“紀元前みたいな服を着たピクシーカットの女性”くらいの印象だった。
それが、今ではスター・ウォーズの主要人物と胸を張って言えるようになった。これは本当にすごい。

シャンドリラの伝統的な結婚式──

モン・モスマは、幼馴染を死地へ送り、娘を己の信念の犠牲にした。踏みとどまろうとする意思はあったが、すでに娘の心は遠く離れていた。プライベートを限界まで犠牲にしても、帝国への反抗の芽はあまりに小さい。理不尽に押し潰される構図に、苛立ちすら覚える。
彼女は議会の中で、静かに、しかし確実に戦っていた。
言葉と交渉によって、名誉と家族と、ついには信条までも手放しながら、自らが“軍を動かす者”へと変わっていく。その道のりの切実さが、何よりも胸を打った。
DJロボットとEDMは賛否両論かもしれないが個人的には結構好きだ。

ルーセン・レイエルという悪役

そしてもうひとり、忘れてはならないのがルーセン・レイル。彼は最初から影に生きる。暴力と欺瞞、裏切りと犠牲。それを自ら進んで背負い、“語る資格”すら放棄した男。その彼がモン・モスマに賭けたのは、自分では変えられないことを知っていたからだ。彼の最後は静かだった。言葉もなく、自死を選ぼうとして、それすら果たせず娘に命を絶たれる。そこに涙も劇伴もない。ただ一つの意思だけが残されていく。それは、悲劇でも敗北でもない。“耐える者”がいて、“汚れる者”がいて、それを“継ぐ者”がいた。
演じるのはDUNEのハルコンネン男爵役のステラン・スカルスガルド氏。

帝国の実情

『アンドー』は帝国を描く。だがそれは、ただの悪ではない。ゴーマン事件に見られるように、帝国は意外と法治的であり、民主的ですらあった。議会は存在し、決議もなされ、制度は整っている。だがその制度が、誰も責任を取らずに進む仕組みになっている。それが“帝国”の恐ろしさだ。正義感で動いたシリル・カーンは、都合よくつかわれあっけなく散った。

パルパティーンは全てを牛耳っているように見えて、実際は官僚機構に依存している。デス・スター建設は議会に気づかれないよう“電力計画”に偽装され、ルーセンでさえそれを察知できなかった。たまたまロニ・ヤングの密告と、デドラ・ミーロの執着が重なっただけで、遅延により偶然にその存在が露呈した。だがその「偶然」すら、よく練られた人物描写の積み重ねにより、妙に“ありそう”に思えるのだ。

この構造は、共和政ローマが崩壊していく過程に似ている。元老院の機能不全と権力の集中、そして“安全保障”の名のもとに自由が削がれていくプロセス。そしてその影は、冷戦期のアメリカにも重なる。

ローグ・ワンへの道

ローグ・ワンでは、キャシアン・アンドーは最後に命を賭ける。あの行動の背景が、このドラマによってはじめて補完された。彼は最初から覚悟していたわけではない。苦しみ、逃げ、裏切られ、そしてようやく“希望”を信じた。ドラマとしても1級品だが、映画の宣伝という意味でも三ツ星だ。

名もなきウィルモン

ウィルモン。思い返すとこの男ほど革命家に向いている人材はいないんじゃないかと思う。
何事もにも柔軟な男だ。

おわり

この作品は、もはや“スター・ウォーズである必要があったか”という問いすら超えている。
商業的成功を求めるディズニーが、ここまで知的で緻密で、そして重い作品にGOを出したこと自体が奇跡だ。
ファン以外には伝わりづらく、知識のない視聴者を振り落とす構造。
それを莫大な予算で実現した。ここに商業的意図は感じづらい。
純粋に“作りたかったから作った”作品に見える。この潔さ、この静かな覚悟が、本作のすべてに通底している。

『アンドー』シーズン2は、SFであり、戦争映画であり、政治ドラマであり、何より「志を継ぐ者たち」の物語だった。
“誰かが立ち上がったから、自分も立ち上がる”。“誰かが背負ったから、自分は語れる”。
その連鎖が、あの“遠い昔、はるか彼方の銀河系”に、たしかに息づいていた。

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